ラクテンチ物語 ⑧最終話
ラクテンチ物語 ⑦ → ⑧最終話
県民の心に灯をともした象の物語
このスタートの時のつまずきは痛手だったが、「タイ国からラクテンチに象がプレゼントされる」というビッグニュースが飛び込んで来て関係者はもちろん、大分県下の子供たちの心を沸き立たせた。
時の細田大分県知事がタイ国経済大臣に「大分県の子供のために象がほしい」と手紙で依頼したのがきっかけで実現したもの。
象が着いたのは、ラクテンチが開園して約4か月後の9月10日朝だった。
別府桟橋に脇別府市長、八坂別府商工会議所会頭、それに二千人を超える子供たちがタイの国旗を打ち振って出迎えるなか関西汽船の貨物船「第二寿丸」から、まだ子供の象が一頭降ろされる。
これを報道陣のカメラが追い、NHKが中継録音した。
この象のためにラクテンチと大分合同新聞が共催で事前に愛称を募集「太郎」と決まっていたが、これに応募して当選した別府市南小学校の達見潔君がこの日、その太郎君の背中に一番乗り。
「なかよし公園」では別府市主催の象の歓迎市民大会開かれた。このあと流川通りをパレードしてラクテンチ入りした太郎は、別府市職のバンド演奏に迎えられ、脇市長から胴帯、八坂会頭から美しいレイ、子供代表からリンゴがそれぞれプレゼントされた。
かわいい子象物語の話題をさらったのは、この時代に心の救いがなかったからであろう。
長い戦争で動物たちの飼料が不足したのと、空襲による逃亡に備えて猛獣類を殺してしまったため、動物園のオリの中はまだ空っぽの時代。
バカ騒ぎと思えるほどの熱狂的なパレードがくりひろげられたり、県知事が先頭に立ってタイ国に掛け合ってくれたものも、すべてを失った終戦直後の精神的空白を埋めようとする心の叫びだった。
観光事業の会社が金もうけの手段として、子供の人気を集めるため一頭の象を買い入れた。
今ならこんな解釈になるだろう。しかし当時は単に一頭のかわいい象がタイからラクテンチへやって来たということだけではなかった。象は県民の心の中に贈られたのである。それほど心に安らぎのほしい時代だった。
この象物語には後日談がある。
貴下は象を熱心に所望されていたのに、その後なんの便りもないが、象は手元に着いたのか、大分県民の子供たちが喜んでいるかどうか、ぜひご一報くださいーー同年11月12日の消印で、こんな内容の航空便が細川知事あてに届いた。騒ぎに取りまぎれて、タイ国政府にお礼の手紙を出すのを忘れていたのである。
びっくりした県広報課では、直ちに歓迎風景ばどの写真と感謝の手紙を空港便で送った。
その後、青年になった「太郎」はメス象のいる岡山の池田農場にムコ入りしたのち、神戸西灘の王子動物園で暮らした。
「太郎」のあとにはメスの象「花子」が登場、引き続き子供たちの人気を集めた。
「ラクテンチ物語」いかがでしたでしょうか??
ラクテンチは長い歴史の中、沢山の方に支えられて今年で90年目を迎えることが出来ました。
この歴史を絶やさないよう、これからも「別府ラクテンチ」皆様に愛される遊園地として頑張ってまいります。
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2016年12月16日更新