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ラクテンチ物語 ②

ラクテンチ物語 ① → ②

 

しかし、掘り進むうちに抗夫が火傷を負うほどの地獄(温泉)にぶつかってしまった。

 

噴気抜きの縦工杭を掘ったり、農業用唐箕を持込んで送風するなどの手を尽くしたが、ついに激しい噴気の熱を抑えることができず、大正5年に操縦中止に追い込まれる。

 

別府鉱山設立以来の総採鉱高は3.814.055貫(約14.303.000kg)、精錬鉱高3.672.648貫(約13.772.000kg)そのうち金産出高は38貫209匁37(約143kg)銀産出高は68貫562匁3(約257kg)だった。

 

木村はこの優秀な鉱脈を持って乙原地区の金山をあきらめきれず、大正12年、採鉱技師・山崎権市を別府に派遣して再びチャレンジした。

 

山崎は明治12年、佐賀県生まれ。

 

向学の志抑えがたく、徒歩で上京したという努力家である。東京工手学校卒業後、住友合資、鉱山監督局などを経て木村鉱業所に入社。

 

台湾勤務ののち、木村鉱山別府出張所長として着任したのだった。

 

山崎は地獄を避け、現在の温泉プール跡地から少し上った朝見川の上手の抗口を開け、新鉱脈を発見する。

 

ところがいよいよ本格操業に入ろうという時に、あの関東大震災に見舞われて木村鉱業所本社が全滅し、資金が途絶えてしまった。

 

ちょうどそのころ、鉱山監督局や別府町会(市政執行は大正13年)から「温泉脈に悪い影響を及ぼす」という理由で採鉱中止の申し入れも受けたため、山崎は無念に涙をのむ。

 

有望視された「乙原金山」は、ここに20年の歴史を閉じたわけたが、当時の杭口跡がラクテンチ下駅付近の山中にも今も残っている。

 

 

・・・ラクテンチ物語③に続く(次はケーブルカーに着目した山崎権市)

 

 

昔のラクテンチの写真です

 

  

2016年09月23日更新