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ラクテンチ物語 ①

「ラクテンチ物語」

 

そもそもは金山だった。

 

ラクテンチの開業は昭和4年のことで、木村商事という会社工事費15万円(当時)と600日を費やして、同年8月末日に完成した。

 

当時、一般には「乙原ケーブル」と呼ばれていた。

 

木村商事は、「日本の産金王」といわれ、太平洋炭鉱株式会社木村工業所(東京)など数多くの会社を創設した木村久太郎(1867~1936)の経営。

 

木村は明治30年ごろ、「地獄の熱い地層には金鉱脈がある」と狙いをつけ、ラクテンチ付近の山のほとんどを木村鉱業所の鉱区としていた。

 

木村鉱業所は最初、今のラクテンチ下駅に向かって左側の杭口を開いたがモノにならず、右側に場所を変えたところ有望な金鉱脈を掘り当てた。

 

そこで明治36年7月に「別府鉱山」を設立、最盛期の大正2年度には金5貫210匁36(約20kg)、銀9貫713匁21(約36kg)を産出している。

 

現在、金の店頭価格は1g当たり1.800円台。銀は同じく28円前後だから、今の貨幣価値に換算すると、最盛期の年間産出額は金が約3.600万円、銀が約100万円ということになる。

 

しかし、堀り進むうちに杭夫が火傷を負うほどの地獄(温泉)にぶつかってしまった。

 

・・・・ラクテンチ物語②に続く

 

昔のラクテンチの園内マップ

 

  

 

 

 

2016年09月21日更新