ラクテンチ物語 ③
ラクテンチ物語 ② → ③
ケーブルカーに着目した山崎権市
乙原の谷から観海寺温泉を結ぶ一帯に100.000坪(30ヘクタール)の広大な山を持っていた木村は、落胆する山崎を慰め励ますように
「見晴らしのよい乙原の山を利用して、何か別の事業をやったらどうか」と勧める山崎は鉱山技師だが、全国の鉱山だけでなく温泉地についても博識の持ち主。
乙原一帯のやまに登って別府湾をながめるうちに、六甲の摩耶ケーブルのことが頭にひらめいた、そうだ。ここにケーブルカーを設けて観光客を山の上に運び、山の上に何か施設を造って登って来た客を楽しませよう。
こんな夢を描きながら、山崎は毎日のように乙原の山を歩き回って計画を練り、木村社長に進言、説得のうえ、大正15年2月、政府に許可申請の手続きをとった。
許可が下りたのは1年後の昭和2年3月16日。
翌年の5月31日には工事施行許可も下りた。しかし資金繰りが苦しく、山崎は乏しい旅費を懐に何度も金策に上京せねばならなかった。
当初はなかなかうまくいかず、帰りの船の中で投身自殺を考えたこともあったという。
ケーブルカーというものが、どんな仕掛けになっているかを知らない近所のお百姓たちが、
「電車を山の上に引き上げる山崎ちゅう男は、ありゃ気違いじゃなかろうか」と噂し合っていたほどだから、一般の理解を得るまでには相当の苦労があったようだ。
ケーブルカーの機器はすべてスイスから購入、ケーブル工事は同国のギゼラインベルン社に発注し、同社のE・リーゼンという技師が来別して担当した。
言葉の障害は市役所の通訳の協力でなんとか切り抜けた。
2016年09月25日更新