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ラクテンチ物語 ⑦

ラクテンチ物語 → ⑦

 

ラクテンチとしての開園

 

戦後3年たった昭和23年12月1日、別府国際観光株式会社が設立されて観光事業に乗り出し、ケーブル遊園地の払い下げ運動を起こした。

 

別府鋼索鉄道社長だった山田英三がこれを黙って見ているはずもなく、前所有者という立場で払い下げを申請し、競願のかたちとなったが、結局は山田が折れて、別府国際観光株式会社に払い下げられた。

 

当時の社長は首藤新八、それに副社長・御手洗辰雄、常務・小林利一という陣容だった。

 

昭和25年6月15日、面目を一新したケーブル遊園地は名前も「ラクテンチ」と改めて開園式を挙げた。

 

しかし開園までの道のりは決して平坦ではなかった。

 

戦後間もない資材難の時代だから、復旧用の資材を調達するのもままならない。

 

そんななかで、園内に住む52世帯に立ち退いてもらうために、野口原に60万円の予算で4棟15戸の住宅を建てたが、その立ち退き問題がこじれる始末。

 

運輸省の完成監査を待つばかりという時に、ケーブル中間離合点付近の高圧線300m分が盗難に遭い、大あわてする一幕も。

 

また、サルの電車の運転手に仕立てるために。3匹のサルを東京の上野動物園に預けたり、新聞広告などでサル回しを探すなど、まさにテンヤワンヤだった。

 

そんなこんなで当初は北浜で4月に開幕した。グランドフェアに開園を合わせる計画だったが、結局間に合わなかった。

 

 

ラクテンチ物語⑧に続く・・・(県民の心に灯をともした象の物語)

 

2016年11月25日更新