ラクテンチ物語 ⑤
ラクテンチ物語 ④ → ⑤
泉都名物ケーブルカーの歌
山崎はさらに関連事業を進め、下駅の北西にプール形式の千人風呂を造り、2階休憩室にした。
ここで入浴したり腹ごしらえをした客を、ケーブルカーで送りこもうという寸法である。
その後、昭和11年に3階建ての国際観光ホテルを計画したが、いま1歩というところで実現しなかった。
この時のケーブルカーの会社は、正式には別府鋼索株式会社といい、資本面は別府の山田英三、支配人・山崎権市のコンビで事業が進められた。
ケーブル遊園地としては、既存の鶴見園をどうしても意識する。
少女歌劇と桜の名所で売っていた鶴見園に対抗して、野外時代劇を導入するとともに桜の木を仏崎公園から移植した。
野外時代劇が演じられたのは、以前サルの電車が走っていた一帯。
別に野外舞台があるわけでなく、縄を張った外側をお客が取り巻き、その内側でチャンバラ劇を上演するという程度のものだったが、主役の人気俳優には「ごひいき筋」ができ、縄の外からコヨリにひねった1円札の「ハナ」が投げられたりした。
また、鶴見園では「鶴見踊り」をつくって宣伝隊を繰り出したり、宣伝の歌もつくった。
これを見た支配人の山崎権市が「この程度の歌ならオレでもつくれる」といって、「泉都名物ケーブルカーの歌」というのを作詞。
これに踊りまで振り付けて従業員親族に猛練習させた。当時の新聞に発表された歌詞は十番まであるが、その一部を紹介しよう。
1、泉都別府の緑の山よ
水の流れに湯のけむり
エンヤラヤノャー エンヤラヤノ
行け行けケーブルカー
2、正面高くあの仰がるる
おとばるの高台に
エンヤラヤノャー エンヤラヤノ
行け行けケーブルカー
2016年10月29日更新